私の人生

「お姉ちゃんには苦労をさせてしまって本当にごめんなさい。」

これは、母が小学校卒業を控えた私にかけた言葉。

 

三姉妹の長女として育った私は、物心がついた頃から、いつも母や妹の為に自分が出来るだけのことをしてしまうタイプの子供だった。

『面倒見がいい』『しっかりしている』と周囲の大人たちからも常に言われていて、最初は嬉しさから更に頑張るようにしていたが、それが苦労と思わなかったのは、やはり生まれながらに尽くすタイプだったのかな。

 

私の両親は自営業を営んでおり、その会社には父方の祖父母や伯父伯母も一緒にいるファミリー企業だった為、母は仕事でも家でも姑や小姑に囲まれた生活を余儀なくされた。

そこで子育て、家事、仕事、嫁業をしていた母を思えば、愚痴をこぼす相手が長女の私になってしまったことも理解できる。

ただ、その愚痴は私の成長スピードを遥かに上回り、だんだんと気付かないうちに心の負担になっていった。『私が母の力になってあげよう。』自然とそう思うようになっていった。

大人たちの顔色を伺いながら、時に母の陰口を言っている伯母や小姑の会話に私の耳はダンボにもなり、母が傷つかないような伝え方をして注意したりもしていた。

だからといって私の子供時代は、暗く悲しいものでもなかった。友達も沢山いたし、いつも人に囲まれた生活をしていたと思う。

幼稚園でも、小学校でも、やりたい事には積極的に参加していたし、学級委員や児童会の委員にもなったりもした。そんな充実した日常からも、自分でも心の疲れに気が付かなかったのだった。

それが6年生のある日、学校の掃除の時間に意識を失い、運んでいた机ごと倒れてしまった。

救急車で病院に搬送される途中の車内で意識を取り戻したが、私の視界に映るのは高く上がった自分の腕だった。指先まで硬直していて痺れるような感覚を感じたが、ピクリとも動かないし、声も出せなかった。医師の診断は、『過呼吸症候群』ということで、「頑張りすぎてるんだよ」と医師に言われて涙をぽろぽろ流したことを覚えている。

それをきっかけに、自分が限界を超えて頑張っていた事を知った私は、今までの様に生きる中で時折息苦しい気持ちになっている自分に気が付き出した。中学生になった頃だった。

うまくコントロールしながら、部活に、塾に、友達付き合いと、日々楽しく生活を送っていたが、中2の時に、後輩イジメをしていた同級生からその後輩を助けてあげたが、後日その後輩が私を裏切り何故だかイジメてきた私の同級生たちに寝返っていたのだった。

そこから私はそのグループから陰湿な嫌がらせを受ける日が続いた。私にも仲の良い友達がいたので、孤独なわけではなかったが、すれ違いざまに耳に入るのは、私に付けた変なアダ名や笑う声。だんだんと廊下を歩くのが嫌になり、そこから人とすれ違うことに恐怖を感じる様になっていった。その後しばらくして、またしても過呼吸で倒れた。

当時の担任の先生が相談にのってくれて、その後は私も自分の友達と過ごすことに楽しみを感じながら、だんだんと以前の元気な自分に戻っていくことができた。

高校受験を控え、勉強をする傍で、自分を見つめ直すことも必要だと考えていた私は、新たなスタートとなるように、高校へ進学したら自分の中にある弱さを克服しようと考えていた。

『自分を変えよう、もっと素直な感情を出そう。』そう決意すると、気持ちも晴れやかになれた。